無神経な男

Life

「ねえ。こんな大事な話をしているときに、なぜ、あなたは携帯をいじっているの?」
「あっ。ごめん。今ちょっとメールが来たから」
「そんなに重要なメールなの? あなた、今の状況わかってる? 今、私たちの結婚生活をどうしようかっていう話をしているのよ」
「だけど、もう君の答えは出ているんだろう?」
「そう…、だけど。あなたはそれでいいの?」
弘子は今、目の前の無神経な男と別れるかどうかの話をしている。
それなのに、この男はご覧の通り、携帯をいじったまま、彼女と目を合わせようともしない。
目の前の男、晴彦は彼女の夫だ。
弘子は、この男の無神経さにはあきれ果てている。
映画のワンシーンのように、コップの水をこの男の顔にぶっかけて、このまま立ち去りたいとも思っている。
しかし、12年も結婚生活を続けていると、いろんな議論すべき、現実的な問題が残っている。
そんな実務の話をしたいのに、この男は…、と弘子はため息をつく。
よくこんな男と12年も一緒に暮らせたなと今更ながら、彼女は自分自身に感心している。

「なあ、おれ達どこで間違ったのかなあ」
「どこでって…」
「どうせ今日は、家のこととか、貯金のこととか、そんな話をするんだろう」
「まあ、ね…」
「そんなどぎつい話をする前に、せめてどこで道を間違ったのか…、それだけでも教えてくれないか?」
「そんな、急に言われても…」
「頼むよ。一瞬でも、この男と一生添い遂げてもいいって思ってくれたんだろう」
「まあ。一瞬ね…」
「それじゃ、おれが当ててもいい? 間違ってたら、そう言って」
弘子は会話を続けながら、晴彦の会話のペースに乗せられて、そのままうやむやになってしまうことをおそれた。
12年間、いつもこのやり方で、はぐらかされてきたことは数限りない。
「弘子、気を付けるのよ」
弘子は自分自身にそうつぶやいた。

「なあ、新婚旅行の時…、色々とあっただろう?」と晴彦が言った。
「うん。まあ」
「12年前の時のこと、まだ、根にもってるのか?」
「まだ? まだってどういうこと? 新婚旅行を台無しにしたのは、あなたでしょ?」

晴彦が言っているのは、12年前の新婚旅行の時のことだ。
そのお店は晴彦が、旅行前からどうしても行きたがっていた店だった。
晴彦いわく「おれ達の新婚旅行に相応しい店は、この店しかないと思ってるんだ」
そして、このレストランが写っている、旅行雑誌の写真を誇らしげに弘子に見せたものだ。
現地で、二人は、迷いに迷った。
旅行雑誌にでていた、そのレストランの地図が、わかりにくかったのだろうか。
晴彦は何度も手にした地図と周りの風景を見比べていた。
しかも、何度も何度も同じところを回っている感じだった。
目の前を歩いている、この男の背中を眺めながら、弘子はこの先の結婚生活の行く末に不安を感じていた。

ようやくお店に着いても、会話は盛り上がらなかった。
「何か注文する?」と晴彦が言った。
「うん、何でもいいわ」
「そうか…」
食事は淡々と進んだ。
相変わらず、重い雰囲気は、二人の間に停滞し、中々去ろうとしなかった。
気が付くと、いつの間にかデザートが出ていた。

弘子は、その時、すでにお腹に鈍い痛みのようなものを感じていた。
カルパッチョを食べていた時、何か生臭い感じがあったのだ。
晴彦はどうだろう?
晴彦も彼女と同じように違和感を感じていたのだろうか?
だが、どんよりとした雰囲気の中で、晴彦にそのことを確認することはなかった。
彼女は目の前の男をちらと見たが、その表情からは何も読み取ることができなかった。

二人は、レストランを出て、ホテルへの帰路についた。
弘子は豪華な部屋にたどり着くと、急いでトイレに駆け込んだ。
トイレから出て、リビングの柔らかなソファにごろんと横になると、不意に眠気が襲ってきた。
「そんなところで寝たら、風邪ひくぞ」と晴彦が声をかけた。
「う…うん」
弘子はあいまいな返事をしたが、そのまま寝入ってしまった。

次の日、弘子が目を覚ますと、晴彦は横で眠っていた。
お腹の鈍い痛みはまだ続いていた。
弘子は、いびきをかいて寝ている、隣の男に猛烈な怒りがわいてきた。
「晴彦! 起きて!」
「ど…どうしたんだよ。」
「どうしてそんなに能天気に寝れるわけ?」
「普通に寝てるだけだけど…。ところで体調はよくなった?」
「私のこと、気遣っているつもり? その割にはよく寝てたわね」
「…」
「もう! せっかくの新婚旅行なのに、最悪だわ」
「それはこっちのセリフだよ!」
結局、弘子はお腹の痛みもあって、そのままベッドに残り、晴彦は一人でロンドンの街をあるくことになった。
そして、それは次の日もその次の日も続き、弘子は新婚旅行の3日間すべてをベッドで過ごすことになった。

弘子はもちろん、その12年前のことをまだ根に持っていた。
「あの時は、さぞ、お一人でロンドンを回られて楽しかったことでしょうね」
「違うんだよ。あの時は、観光地は回らずにホテルの近くのパブで時間をつぶしていたんだよ」
「えっ?」
「さすがに一日目は、一人でビッグベンまで行ったけど、君と一緒じゃなきゃ、全然楽しくなかったから…」
弘子の中の危険信号がまた灯った。
「そ、それが、どうしたのよ?」
しばらく経ってから弘子が言った。
「まさかよりを戻したいなんて言うんじゃないでしょうね」
「そのまさかだよ。また一緒に一からやり直してみようよ」
「えっ、そんなの無理だよ。ここまで話が進んでいるんだから…」
「そんなのすべて白紙に戻せばいい」

弘子の中の危険信号はまだ、灯っていた。
消えることはおそらくないかもしれない。
でも、今すぐこの男との生活への結論を出す必要はないかもしれないと思った。
もう少し…、もう少しだけ、この男のことを知ってみよう。

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