どうだい?
すごいだろう?
この炎。
もちろん、本物だ。
紙細工でも、光の仕掛けでもない。
火だ。
正真正銘の火だ。
ただし、これをやる時は、絶対に息を吸っちゃいけねえ。
ほんの少しでも吸い込めば、肺が焼かれる。
喉が裂けるように熱くなって、次の息ができなくなる。
下手をすれば、そのまま終わりだ。
永遠にな。
まずは、自己紹介をしよう。
俺は旅芸人だ。
街から街へ渡り歩き、広場や祭りや安っぽい劇場で、火を吹いて暮らしている。
昼間は馬車の車輪を直し、夜になれば赤い布を肩にかける。
太鼓が鳴り、客が集まり、子どもが前へ出てくる。
酔っぱらいは野次を飛ばし、女たちは笑い、男たちは腕を組んで、いかにも怖くないという顔をする。
そこで俺が松明を掲げる。
一瞬、あたりが静かになる。
その静けさがいい。
火を口に含む。
息を整える。
目を細める。
そして、吐く。
炎が夜を裂く。
すると客は叫ぶ。
拍手が起こる。
子どもは飛び上がり、酔っぱらいは酒をこぼし、さっきまで腕を組んでいた男たちまで目を丸くする。
あの瞬間だけは、俺が夜の王様だ。
まあ、少し言いすぎたかもしれねえ。
だが、芸人ってのは、少しくらい大げさでなけりゃやってられねえんだ。
火はいい。
分かりやすい。
熱い。
明るい。
怖い。
そして、美しい。
火を吹くと、人は笑う。
怖がりながら笑う。
自分の目の前で危ないことが起きているのに、それが自分には向かってこないと分かった途端、人は安心して拍手をする。
俺たちは、その拍手で飯を食う。
だがな。
客は危険に慣れる。
最初は小さな炎で驚く。
次はもっと大きな炎を見たがる。
一度高く吹けば、次はもっと高く。
一度近くで吹けば、次はもっと近く。
一度失敗しそうになれば、次は本当に失敗しかけるところを見たがる。
昨日の奇跡は、今日の前座になる。
これを覚えておいたほうがいい。
客は危険が好きなんじゃない。
危険に負けない人間を見るのが好きなんだ。
いや、もっと悪い。
時々、負けるところまで見たがっている。
俺にそう教えたのは、エレナだった。
エレナは綱渡り芸人だった。
あいつは、地面の上より綱の上のほうが自然に見える女だった。
歩くというより、空気の上をすべるように進む。
細い足。
長い指。
黒い髪。
本番前だけ、まるで祈るように黙る癖があった。
俺が火を扱う男なら、エレナは空を扱う女だった。
最初に会った時、あいつは低い綱を渡っていた。
大人の背丈より少し高いくらいの綱だ。
それでも十分に美しかった。
客は黙った。
エレナが綱の上に乗ると、誰も喋らなくなった。
派手な太鼓も、酒場の笑い声も、安っぽい口笛も、全部遠くなった。
あいつの芸には、そういう力があった。
俺はよくからかった。
「そんな低い綱なら、落ちても膝をすりむくだけだろ」
エレナは笑わずに言った。
「あなたの火だって、最初は小さかったでしょう」
まったく、その通りだった。
芸人というものは、最初から危険なわけじゃない。
少しずつ、危険に慣れていく。
そして慣れた頃に、自分が何をしているのか分からなくなる。
エレナの綱は、年々高くなった。
最初は広場の端から端へ。
次は市場の二階の窓から反対側の屋根へ。
その次は劇場の梁から梁へ。
客は喜んだ。
「もっと高く!」
「今度は目隠しだ!」
「風のある日にやれ!」
「火の上を渡れ!」
冗談のように聞こえるだろう。
だが、客の冗談ほどたちの悪いものはない。
冗談で言ったはずのことを、誰かが本当にやる。
すると客は喜ぶ。
そして次は、それ以上を求める。
俺はある夜、エレナに言った。
「やめとけ。芸ってのは、生きて次の街へ行くためにあるんだ。死ぬためにあるんじゃねえ」
エレナは、綱の手入れをしながら俺を見た。
「じゃあ、あなたの火はどうなの?」
俺は黙った。
言い返せなかった。
俺だって同じだった。
火を大きくし、距離を縮め、客の顔すれすれに炎を走らせた。
危ないと分かっていても、拍手が来るとやめられなかった。
拍手ってのは、甘い酒に似ている。
一口なら気分がいい。
だが飲みすぎると、足元が見えなくなる。
問題の夜は、南の町の祭りだった。
赤い布が張られ、太鼓が鳴り、広場には人が溢れていた。
暑い夜だった。
空気が重く、火を吹く前から喉が焼けるようだった。
その日の目玉は、エレナの綱渡りだった。
広場の両側に高い柱が組まれていた。
見上げるだけで首が痛くなる高さだ。
下では俺たちが火を吹き、太鼓が鳴り、その上をエレナが渡る。
ばかげている。
そう思った。
だが、誰もやめろとは言わなかった。
客はもう集まっていた。
主催者は金の勘定をしていた。
太鼓打ちは手を温めていた。
俺は松明を握っていた。
エレナは赤い衣装を着ていた。
顔は白く、目だけがやけにはっきりしていた。
「本当にやるのか」
俺が聞くと、エレナは少しだけ笑った。
「もう綱が張られているわ」
「綱が張られてたって、降りることはできるさ」
「降りたら、客はそれを覚えている」
「落ちたら、もっと覚えている。だが、その時お前はもういない」
エレナは答えなかった。
本番が始まった。
俺は火を吹いた。
炎が夜に伸びる。
客が叫ぶ。
太鼓が鳴る。
その上で、エレナが綱に乗った。
一歩。
また一歩。
広場のざわめきが、少しずつ遠くなっていく。
俺は松明を持ったまま、ずっと上を見ていた。
エレナは美しかった。
悔しいほどに。
赤い衣装が炎の光を受けて、まるで空に火が移ったように見えた。
あいつは細い綱の上で、誰よりも静かだった。
中ほどまで来たときだった。
風が吹いた。
ほんの短い風だ。
だが、高い場所ではそれだけで十分だった。
エレナの身体が揺れた。
客が息を飲む。
太鼓が一瞬遅れる。
そして、あいつの右足のつま先が、綱から離れた。
ほんの一瞬だ。
本当に、まばたきほどの一瞬だった。
だが俺には見えた。
エレナが下を見たのが。
あいつはその時、地面を見たんじゃない。
俺には分かる。
あいつが見たのは、客の顔だった。
落ちるかもしれない女を見上げる、人間たちの目。
心配している目ではなかった。
祈っている目でもなかった。
期待している目だった。
もっと危なく。
もっと近く。
もっと震えて。
もっと死にそうに。
落ちるな、と願いながら、落ちるかもしれない瞬間から目を離せない目。
あれは地獄だ。
エレナは、その一瞬で地獄を見ちまったんだ。
だが、あいつは落ちなかった。
身体をひねり、腕を広げ、つま先を戻した。
綱がわずかに揺れた。
客が叫んだ。
太鼓がまた鳴り始めた。
エレナは渡り切った。
柱の向こう側に足を下ろした瞬間、広場は爆発したように沸いた。
拍手。
口笛。
叫び声。
足を踏み鳴らす音。
「もう一回!」
「今の、すごかったぞ!」
「次は目隠しだ!」
「もっと高くやれ!」
俺はその声を聞いて、初めて火が怖いと思った。
火そのものじゃねえ。
火を見て喜ぶ人間の目が怖かった。
楽屋に戻ったエレナは、汗をかいていなかった。
顔も崩れていなかった。
ただ、いつものように静かだった。
俺は言った。
「渡り切ったな」
エレナは椅子に座ったまま、ゆっくり首を振った。
「私、今夜落ちたのよ」
「落ちてねえだろ」
「違う」
彼女は自分の足を見た。
「綱からじゃない。あいつらの目の中に落ちたの」
俺は何も言えなかった。
エレナは続けた。
「あそこにいたら、いつか本当に落ちる。落ちるまで、あいつらは拍手をやめない」
その声は震えていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、もう決めている声だった。
「次の街へは行かないのか」
俺が聞くと、エレナは少しだけ笑った。
「行くわ。でも、あなたたちと同じ街には行かない」
そのとき初めて、俺は分かった。
エレナは綱を降りるだけじゃない。
俺たちのいる場所からも、降りようとしていたのだ。
翌朝、エレナはいなかった。
綱も、赤い衣装も、化粧道具も、楽屋に残っていた。
あいつが持っていったのは、小さな鞄ひとつだけだった。
誰かは逃げたと言った。
誰かは臆病になったと言った。
誰かはもったいないと言った。
俺は、そうは思わなかった。
エレナは落ちたんじゃない。
綱から降りたんだ。
それができる芸人は、そう多くない。
俺は今でも火を吹いている。
街から街へ渡り、広場に立ち、松明を掲げる。
客は相変わらず叫ぶ。
もっと大きく。
もっと近く。
もっと危なく。
俺は笑う。
赤い布を肩にかけ、いつものように口上を言う。
どうだい?
すごいだろう?
この炎。
もちろん本物だ。
だが、火を吹く前に、俺はいつもエレナのことを思い出す。
綱の上で一瞬だけつま先を離した、あの赤い姿を思い出す。
そして、下に群がっていた客の目を思い出す。
だから俺は、自分に言い聞かせる。
息を吸うな。
拍手も吸うな。
どちらも、肺まで入れると人間を焼く。
コメント