赤い自転車泥棒

Smile

ねえ、そこのあなた。

『自転車泥棒』という映画をご存知ですか?

ようやく得た仕事に最低限必要だった、大事な大事な自転車を盗まれた男の話です。

さあ、この赤い自転車を見てください。

細いフレーム。

少し頼りない前カゴ。

けれど、町を走るにはちょうどいい軽さ。

派手すぎず、地味すぎない赤。

この赤がいいのです。

赤といっても、燃えるような赤ではありません。

少しだけくすんだ、町角に馴染む赤。

黒い壁の前に置くと、まるで古い映画の小道具のように見える赤。

これは私の自慢の自転車です。

いや、正確に言うと、自慢の自転車でした。

盗まれたのです。

映画の男は、生活のために自転車を探しました。

私は、駅前のパン屋と図書館と、ときどきお気に入りの喫茶店へ行くために探しました。

どうか、笑わないでください。

本人にとっては、どちらもかなり切実なのです。

盗まれたと気づいたのは、夕方でした。

私はいつもの駐輪場へ行きました。

いつもの場所に、いつもの赤い自転車があるはずでした。

……ありませんでした。

一瞬、私は場所を間違えたのだと思いました。

そういうことはあります。

人は思い込みで生きています。

昨日と今日の駐輪位置を混同することもあります。

私は冷静に、駐輪場を一周しました。

ありません。

二周しました。

ありません。

三周しました。

やはり、ありません。

そのあたりで、私は静かに悟りました。

これは事件だ、と。

映画の男は、盗まれた自転車を探してローマの街を探し回りました。

私は、まず駅前の駐輪場を三周しました。

規模は違います。

しかし、絶望の質は似ています。

たぶん。

私は友人の佐野に電話しました。

「佐野、やられた」

「何を?」

「自転車だ」

「パンクか?」

「盗まれた」

電話の向こうで、佐野はしばらく黙りました。

「……鍵は?」

「そこを最初に聞くな」

「いや、最初に聞くところだろ」

私は深く息を吐きました。

「これは、僕にとっての『自転車泥棒』なんだ」

「警察行けよ」

「そういう話ではない」

「いや、そういう話だ」

十五分後、佐野はやって来ました。

ありがたいことに、ちゃんと来てくれました。

映画の男には、隣を歩いてくれる息子がいました。

私には佐野がいました。

だいぶ違います。

だが、ありがたいことに変わりはありません。

佐野は駐輪場を見渡しました。

「赤いやつだよな」

「ああ」

「確か……前カゴがちょっと曲がってるやつ」

「曲がっているのではない。個性だ」

「サドルの下に変なシール貼ってるやつ」

「あれは防犯上の工夫だ」

「いや、盗まれてるし」

私は返す言葉を失いました。

それから私たちは、駅の周りを歩きました。

コンビニの前。

スーパーの横。

パチンコ屋の駐輪場。

古いマンションの入口。

高架下の暗い場所。

赤い自転車を見つけるたび、私は足を止めました。

近づいて、フレームを見ました。

カゴを見ました。

サドルを見ました。

違う。

これではない。

赤ければいいというものではないのです。

人には顔があるように、自転車にも顔があります。

長く乗っていると、持ち主には分かるのです。

佐野は途中で缶コーヒーを買いました。

「飲むか?」

「今はそういう気分ではない」

「あの映画の主人公っぽくなってきたな」

「分かるか」

「いや、面倒くさくなってきただけ」

私たちは交番へ行きました。

若い警察官に事情を説明しました。

赤い自転車です。

前カゴがあります。

少し古いですが、よく走ります。

サドルは黒です。

ベルは少し鳴りにくいです。

フレームに小さな傷があります。

あれは去年、私がパン屋の前で倒した時の傷です。

説明しながら、私は胸が熱くなりました。

こんなに細かく覚えているのか。

私はあの自転車を、こんなにも見ていたのか。

警察官は丁寧にメモを取りながら言いました。

「防犯登録番号は分かりますか?」

私は佐野を見ました。

佐野は私を見ました。

「……分かる?」

「今、君に聞こうかと」

「いや、自分のだろ」

その瞬間、映画『自転車泥棒』の主人公よりも、私は自分の準備不足を恥じました。

映画の男は貧しさと社会の中で追い詰められていました。

私は、防犯登録番号の控えをどこに置いたか分からないことで追い詰められていました。

悲劇には、いろいろな種類があります。

交番を出ると、すっかり日が暮れていました。

私たちは駅前のベンチに座りました。

佐野は二本目の缶コーヒーを飲んでいました。

「まあ、見つかるかもしれないだろ」

「本当にそう思っているか?」

「半分くらい」

「もう半分は?」

「あきらめて、君が新しいの買えばいいと思ってる」

私は佐野を睨みました。

「君は分かっていない」

「何が」

「あれは単なる移動手段ではない。僕の生活の一部なんだ」

「かっこよく言ってるけど、近所用だろ」

「近所こそ生活だ」

佐野は少し笑いました。

「それはまあ、そうかもな」

その言葉で、私は少しだけ救われました。

そうなのです。

あの赤い自転車は、遠くへ行くためのものではありませんでした。

でも、少しだけ外へ出るためのものでした。

コンビニへ行く。

図書館へ行く。

商店街を抜ける。

帰りにパンを買う。

雨が降りそうな空を見て、少し急ぐ。

そういう、どうでもいいような毎日の中に、あの自転車はいました。

映画の男にとって、自転車は仕事のために必要なものでした。

私にとっても、自転車は生活のために必要なものでした。

生活の規模は違うかもしれません。

でも、生活というものは、そもそも本人にしか測れないのです。

帰り道、佐野が言いました。

「で、どうする?」

「探す」

「まだ?」

「今日はよす。明日も探す」

「暇だな」

「愛だ」

「自転車に?」

「自転車に」

佐野は呆れたように笑いました。

だが、別れ際にこう言いました。

「防犯登録の控え、ちゃんと探せよ。あと、写真も残ってるなら警察に見せろ」

やはり、いいやつです。

映画の男には息子がいました。

私には佐野がいました。

だいぶ違う。

でも、なかなか悪くありません。

さて。

この赤い自転車を盗んだ人へ。

あなたにとっては、ただの自転車かもしれません。

けれど私にとっては、コンビニと図書館と、少しだけ自由へ向かうための大切な相棒でした。

どうか返してください。

できれば、空気も入れておいてください。

佐野が横で、

「そこまでは求めすぎだろ」

と言っています。

でも私は、あえて言います。

空気も、入れておいてください。

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