わしはこのロンドンで、生涯のほとんどの時間を過ごしている。
この街を出たこともない。
いや、一度だけ。
わしがまだ人生というものを信じていた頃に、アムステルダムに行ったきりか……。
あの街は、ここロンドンとはまったく違う。
水の匂いが強すぎる。
道は妙に開けていて、人々の顔もどこか軽い。
まるで、自分の人生をどこへでも運んでいけると信じているような顔をしていた。
わしには合わなかった。
あの街は、わしには明るすぎた。
やはり、ロンドンがいい。
灰色の空。
重たい雲。
テムズ川の鈍い光。
古い石の建物。
雨に濡れた橋。
パブの窓から漏れる橙色の灯り。
この街には、浮ついたところがない。
人間の喜びも、悲しみも、黙って受け止めるだけの厚みがある。
ロンドンは、人生に似ている。
晴れの日ばかりではない。
むしろ、曇っている日のほうが多い。
だが、その曇り空の下で、人はそれでも歩いていく。
それで十分ではないか。
パリだの、ローマだの、ウィーンだの。
人はすぐに、よその街を見たがる。
まるで、ここではないどこかに行けば、自分まで別の人間になれると思っている。
ばかげている。
街を変えたところで、人間は変わらん。
石畳が変わっても、川の名前が変わっても、夜になれば同じように一人になる。
旅など、しょせん目先を変えるだけの慰めにすぎん。
そうだ。
ロンドンにいればいい。
この街には何でもある。
雨もある。
鐘の音もある。
古い橋もある。
川を渡る風もある。
夕暮れになると、鳥たちが黒い影になって空を切っていく。
あの鳥たちは、どこへでも飛んでいける。
だが、またこの街へ戻ってくる。
賢いものだ。
人間も同じでいい。
帰る場所さえあれば、それでいい。
わざわざ遠くへ行って、心を乱す必要などない。
……いや。
違うな。
わしは、何をそんなにむきになっているのだろうな。
本当は、わかっている。
わしはロンドンを愛していたのではない。
ロンドンに残った自分を、正しかったことにしたかったのだ。
アムステルダムに行ったのは、二十代の終わりだった。
まだ絵を描いていた。
絵だけで生きていけると、本気で思っていた。
あの頃、わしの隣には一人の女がいた。
エリスという名だった。
彼女はよく笑った。
わしの下手な絵を見ても、真剣な顔で褒めてくれた。
「あなたの描く空は、寂しいのに温かい」と言った。
今思えば、あれは慰めだったのかもしれん。
だが当時のわしは、その言葉だけで世界のどこへでも行ける気がしていた。
アムステルダムへ行こうと言ったのは、彼女だった。
美術館を見て、運河沿いを歩いて、少しだけ世界を広げてみよう、と。
わしは怖かった。
だが、彼女の前では怖いなどと言えなかった。
そして、あの街でわしは知ってしまった。
本物の絵というものを。
世界には、自分よりもはるか遠くを見ている人間がいるということを。
自分の絵が、ただの小さな慰めにすぎなかったということを。
エリスは、目を輝かせて絵を見ていた。
わしは、その横顔を見ながら、彼女はもうわしのいる場所には戻ってこないのだと思った。
彼女が誰かと去ったわけではない。
劇的な別れがあったわけでもない。
ただ、わしのほうが先に背を向けたのだ。
ロンドンへ戻ろうと言った。
ここは合わない、と。
こんな街で得るものなどない、と。
彼女はしばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
ロンドンに戻ってから、わしらは少しずつ話さなくなった。
わしは絵筆を置いた。
彼女は、ある春の朝、荷物をまとめて出ていった。
あとになって、アムステルダムで知り合った男のもとへ行ったらしいと聞いた。
本当かどうかは、今でもわからない。
わしは確かめなかった。
確かめる勇気もなかった。
彼女は、最後までわしを責めなかった。
だからこそ、余計にこたえた。
あれから、わしは旅をしなくなった。
ロンドンが一番だと言い続けた。
ここにはすべてがあると言い続けた。
よその街など見る必要はないと言い続けた。
言い続けなければ、気づいてしまうからだ。
本当は、パリを見てみたかった。
ローマの朝を歩いてみたかった。
ウィーンの音楽を聴いてみたかった。
プラハの橋に立ってみたかった。
ニューヨークの夜に、少しだけ圧倒されてみたかった。
そして、もう一度、アムステルダムの運河を歩いてみたかった。
わしは、世界を嫌っていたのではない。
世界に拒まれるのが怖かったのだ。
年を取ると、人は諦めが上手くなる。
行けなかった場所を、行く必要のなかった場所に変える。
できなかったことを、したくなかったことに変える。
そうやって、自分の人生をどうにか守ろうとする。
だが、それは少し寂しい。
今、橋の上で鳥たちが騒いでいる。
テムズ川の上を、何羽も何羽も横切っていく。
黒い羽が、灰色の空に溶けていく。
あの鳥たちは、明日には別の街の空を飛んでいるかもしれん。
それでも、何事もなかったように戻ってくるのだろう。
ならば、わしも少しくらい離れてみてもいいのかもしれん。
ロンドンは、わしを責めたりはしない。
この街は、いつでも曇った顔で、黙って人を迎えてくれる。
もう一度、アムステルダムに行ってみるのもいいかもしれん。
あの運河の水の匂いを、今度は逃げずに嗅いでみるのも悪くない。
わしには、あともう少し時間がある。
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