人生のたそがれには

Life

今からわしの第二の人生が始まる。
さっき30年勤め上げた会社で手続きを終えて、帰宅するところだ。
今日が最終日だった。
朝食の時、妻がささやかな退職祝いのつもりだろうか、いつもよりトーストを1枚多くつけてくれた。
あえて礼は言わなかった。
なぜなら、これは祝いでもなんでもないからだ。
ただ60になったじじいを会社から追い出すための儀式。
いつものように黙々と朝食を終え、家を出た。

家の前の通りに出ると、10月のさわやかな空気がわしを迎えてくれた。
すこしひんやりとした空気がわしを清めてくれるようだった。
この朝の空気がわしは好きだった。
明日の朝から、わしはこの空気に触れることができるだろうか。
なんの目的もない朝に、こんな朝早くに寝床から這い出すことができるだろうか。

目の前の家のバカ犬がわしに向かって吠えている。
そんなバカ犬でも、今日は怒りを覚えない。
「今日も自分の仕事をがんばっているな、戦友!」
そんな言葉を意識の中で、戦友に投げかけてみた。
戦友は不思議そうな顔をして、わしに吠えるのをやめた。
そして、駅に向かってわしが通り去るのを、じっと眺めていた。

会社に着くと、いつもと変わらない光景が広がっていた。
せわしなく電話に応対している者、パソコンに向かってなにかをひたすら打ち込んでいる者。
あとは何をやっているのか、いまだにわからない幽霊のような輩。
いつもの光景だ。
そんな光景でも、今日は一味違った形に見える。
なんだかモノクロがかかったような懐かしさと寂しさが入り混じったような光景だ。
私の出社が今日が最後だとしても何も変わらない光景。
明日以降も1ミリも変わらず、びくともしない光景。
50代後半からはほとんど会社に貢献できていなかったから、当然と言えば、当然なのだが。

わしは自分の席に戻り、手持ち無沙汰で「退職のしおり」などを読みながら、作業にならない作業を進めていた。
しばらくすると、総務の武田が声をかけてきて、1時間ほど事務手続きの説明を受けた。
最後に武田が言った。
「手続きの説明はこれで終わりです。今日は定時まで残られても構いませんし、このまま帰られてもどちらでも構いません。
色々とありましたが、相沢さん、長い間ありがとうございました」
武田が言った「色々」という言葉が気にいらなかった。
50代後半に、周りのやつらから「給料泥棒」と思われていた時期がある。
そのことを指しているのかもしれない。
武田は、銀行員崩れで、総務らしく細かい雑務の手配などにたけている男だった。
わしのそんな噂は間違いなく、この男にも伝わっているはずだった。
わしは武田に言った。
「こちらこそ、どうも『色々と』ありがとう。今後は私の給料をもっと有益な人材に使ってください」
後半はもちろんに実際には口に出していない。心の中で唱えただけだ。

自分の席に戻っても、もちろん作業はなかった。
ふたたび、「退職のしおり」を読み続けた。
このまま帰宅しようかどうか迷っていた。
隣の西山が、ことさら大きな声で電話で取引先と話をしていた。
西山は5年ほど前から、明らかにわしを邪魔者扱いしていた。
今日はわしと目すら、合わせようとしなかった。
意地を張って、この席に定時までいてやろうかと思ったが、そんなことは無駄だとわかっていた。
身の回りの荷物は一週間前に、持ち帰っていた。
だから、私は身一つでそのまま立ち去るだけでよかった。
わしは席を立った。
誰もがわしの存在すら、忘れているようだった。
この場所では、わしは過去の人間だった。
わしは西山のほうも、他の誰とも挨拶をせず、会社を出た。

会社の外にでると、わしはまだ明るい秋の空を見上げて、こう思った。
わしのサラリーマン人生は何だったんだろうと。
挨拶もなし。送別会もなし。
だが、これでいいと思った。
変に会社に未練を残すより、こちらのほうがよっぽどいい。

人生のたそがれにはすべてが悲しく見える。
死ぬまでおとなしく生きるのが、得策かもしれない。
ただ、わしにはまだ、やることがある。
わしは50代、そのことのために粛々と準備を進めてきた。
武田にも西山にも、そんなことはおくびにも出さず過ごしてきた。
やつらは、それを知ったら驚くだろう。

そう、わしの第二の人生はこれから始まる。
わしの人生は、まだ終わっちゃいねえ。

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