ワインを飲んで、こちらへ

Life

「さあ、そのワインを飲んで、私と一緒に来るの?」

女は、波打ち際に立ったままそう言った。

白い服の裾が、暗い水に濡れている。

それなのに、女は少しも寒そうではなかった。

濡れた髪が頬に張りつき、海から上がってきたばかりのようにも、ずっと前からそこに立っていたようにも見えた。

砂の上には、一本のワインボトルと、赤い液体の入ったグラスが置かれている。

「あなた、もしかしてためらっているの?」

女は少し首を傾げた。

「だめな男。もし、私が期待した通りの男なら、さっさとそれを飲んで、こっちに来るのよ」

私は黙っていた。

喉は乾いていた。

けれど、そのグラスに手を伸ばすことはできなかった。

どこへ連れて行かれるのか分からない。

何が起こるのかも分からない。

そもそも、目の前の女が本当に人間なのかどうかさえ、私には判断がつかなかった。

女は、こちらを見たまま笑わなかった。

「あなた、もう十分に帰りたくない場所で生きてきた顔をしているわ」

その言葉に、私は息を止めた。

有給を取ったわけではない。

会社に行けなくなったのだ。

朝、いつも通り家を出た。

シャツに袖を通し、ネクタイを締め、駅へ向かった。

ホームには、同じような顔をした人間が並んでいた。

電車が来た。

けれど、足が動かなかった。

スマホが震えた。

画面には会社の名前が出ていた。

上司からの通知だった。

私はそれを見て、反対側のホームへ向かった。

そして、来た電車に乗った。

何度か乗り継ぎ、気づけば海のある町にいた。

会社では、私はいつも「分かりました」と言っていた。

分かっていないことにも。

納得していないことにも。

もう無理だと思っていることにも。

頭を下げることには慣れていた。

だが、いつからか、自分の心にまで頭を下げて生きている気がした。

朝から晩まで、誰かの都合に合わせていた。

謝り、説明し、飲み込み、笑った。

疲れ切って帰れば、暗い部屋に電気をつける。

冷蔵庫には、たいしたものは入っていない。

机の上には、処理しきれない書類と、飲みかけの水があるだけだった。

私は、何をしているのだろう。

そう思う日が増えた。

誰にも言わなかった。

言えば笑われる気がした。

だが、本当はずっと思っていた。

俺にだって、幸福になる権利はある。

女は、私の心を見透かしたように言った。

「ここに残れば、明日も同じでしょう?」

波が寄せて、引いた。

「また同じ朝が来る。

また同じ顔をして、同じ言葉を並べて、同じように疲れて眠る。

違う?」

違わなかった。

私は砂の上のグラスを見た。

赤い液体は、夕陽を溶かしたようにも、誰かの血のようにも見えた。

「私はね」と女は言った。

「ここではない場所を知っているの」

「どこだ」

自分の声が、思ったよりかすれていた。

女は答えなかった。

「泣かなくていい場所。

何かになろうとしなくていい場所。

うまく笑えなくても、責められない場所」

そんな場所があるはずがない。

そう思った。

だが、ないと言い切れるほど、私は世界を知っているわけではなかった。

女は同じ場所に立ったままだった。

白い服が、波に揺れている。

近づいてきたわけではない。

それなのに、さっきよりも近くにいるような気がした。

「決めるのはあなたよ」

私はグラスに手を伸ばした。

指先が震えていた。

毒かもしれない。

酒ですらないのかもしれない。

飲めば二度と戻れないのかもしれない。

だが、戻ったところで、何があるのだろう。

明日の会議。

未読のメール。

机の上の書類。

誰かのため息。

誰かの怒鳴り声。

そしてまた、同じ言葉。

分かりました。

申し訳ありません。

確認します。

対応します。

私は笑いそうになった。

「もし、地獄だったら?」

そう聞くと、女は少しだけ目を細めた。

「あなた、今までいた場所を天国だと思っていたの?」

私は何も言えなかった。

風が吹いた。

潮の匂いが強くなった。

私はグラスを持ち上げた。

赤い液体が、暗い光を受けて揺れた。

一口飲んだ。

思ったより甘かった。

けれどそのあとで、喉の奥に冷たい刃のようなものが落ちていくのを感じた。

女が手を差し出した。

その手は白く、細く、濡れていた。

「いらっしゃい」

私は少しためらってから、その手を取った。

冷たかった。

けれど、不思議と嫌ではなかった。

背後で、スマホが鳴っていた。

画面には、会社の名前が光っていた。

何度も、何度も。

私は振り返らなかった。

女の手を取ると、足元の海が音もなく開いた。

その先に何があるのか、私には分からなかった。

ただ、戻る場所だけは、もう分かっていた。

戻りたくない場所だ。

波音の向こうで、女が笑った。

「よくきたわね」

その声を最後に、浜辺の音が消えた。

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