母はそれを父と呼ばなかった

Life

僕は今、「奴ら」を見ている。

奴らは、まだ僕に気づいていないようだ。
少なくとも、この瞬間は。

ワードローブの中は、古いコートの匂いがした。
湿った木と、防虫剤と、雨に濡れた羊毛の匂い。
僕は膝を抱え、扉の細い隙間からリビングを見ていた。

母さんは、暖炉の前の椅子に座っていた。
背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いている。
その姿は、いつもの母さんとは少し違って見えた。

夜になる前、母さんは僕をワードローブの中に入れた。

「何が見えても、絶対に声を出したらダメよ」

母さんはそう言った。

「何を言われても、絶対に返事をしたらダメよ」

僕が理由を聞こうとすると、母さんは僕の口に指を当てた。

「いい子だから。ここにいて」

それから、少し間を置いて、低い声で言った。

「あれは、お父さんじゃない」

その意味が、僕にはよく分からなかった。

お父さんは、もう家にはいない。
母さんはいつも、遠くへ行ったのだと言っていた。
どこへ行ったのかは、教えてくれなかった。

写真の中のお父さんは、少しだけ笑っていた。
大きな手をしていて、濃い眉をしていて、母さんよりもずっと背が高かった。

僕の記憶の中のお父さんは、ぼんやりしている。
肩車をしてくれたこと。
煙草と雨の匂いがしたこと。
低い声で僕の名前を呼んだこと。

それくらいしか、覚えていない。

だから最初、リビングに入ってきた男を見たとき、僕は息を止めた。

お父さんだ、と思った。

顔が似ていた。
背の高さも、肩の形も、写真のお父さんと同じだった。
扉の隙間から見える横顔は、僕が何度も見た写真の顔だった。

でも、違った。

何かが違った。

男は泥のついた靴のまま、古いラグの上に上がった。
母さんはそれを注意しなかった。
ただ、顔を上げずに、膝の上の手を見ていた。

男は母さんの名前を呼んだ。

その声も、お父さんに似ていた。
似すぎていて、逆に怖かった。

「まだ、持っているんだろう」

男が言った。

母さんは答えなかった。

「隠しても無駄だ」

もう一人、廊下の暗がりに影が立っていた。
そいつも、お父さんに似ていた。

僕は目をこすった。
見間違いだと思いたかった。

けれど、そこには二人いた。
同じような背丈で、同じような顔をして、同じように母さんを見ていた。

お父さんが二人いる。

そんなこと、あるはずがない。

母さんが小さな声で言った。

「何もありません」

すると、男の一人が笑った。

その笑い方だけは、お父さんではなかった。
喉の奥で何かが引っかかるような、湿った笑い方だった。

「子どもはどこだ」

その言葉を聞いた瞬間、母さんの指先がわずかに動いた。

僕は、ワードローブの中でさらに小さくなった。
膝を胸に押しつけ、息を殺した。

男の足が、こちらへ向いた。

床板がきしむ。
一歩。
また一歩。

黒い靴の先に、泥がついていた。
家の中なのに、土の匂いがした。

男はワードローブの前で止まった。

僕は目を閉じた。
でも、閉じた目の奥で、男がこちらを見ている気がした。

「おい! そこにいるんだろう」

それは、お父さんの声だった。

僕は返事をしなかった。
母さんの言いつけを守った。

何を言われても、絶対に返事をしたらダメよ。

そのとき、母さんが立ち上がった。

「やめてください」

母さんの声は震えていなかった。

「その子は関係ありません」

男はしばらく黙っていた。
それから、低く笑った。

「関係ないものか。
お前にはこの子がどうなるのかわかっているのか」

母さんは答えなかった。
ただ、ワードローブの前に立った。

やがて、男たちはリビングを出ていった。

玄関のドアが開く音はしなかった。
鍵の音もしなかった。

ただ、廊下の向こうへ足音が遠ざかり、家の中は急に静かになった。

母さんはしばらく、その場に立っていた。
僕はワードローブの中から出ていいのか分からなかった。

母さんは扉を開けなかった。

その夜、僕はワードローブの中で眠った。
眠ったのか、気を失ったのかは覚えていない。

翌朝、目を覚ますと、僕は自分のベッドの中にいた。

キッチンからトーストの焦げる匂いがした。
窓の外では、細い雨が降っていた。

母さんは、いつものように朝食を作っていた。
白い湯気の向こうで、紅茶をカップに注いでいた。

僕はテーブルについた。

しばらく黙ってから、聞いた。

「昨日の人たちは、誰?」

母さんはナイフとフォークを並べる手を止めなかった。

「昨日?」

「夜に来た人たち」

母さんは、少しだけ首をかしげた。

「ん? 誰も来ていないわよ」

僕は母さんを見た。

「でも、母さん、言ったよ」

母さんは僕を見なかった。

「あれは、お父さんじゃないって」

そのとき、母さんの手が止まった。

ほんの一瞬だった。
でも僕は見た。
母さんの指先が、小さく震えたのを。

それから母さんは、何でもない顔で言った。

「えっ、そんなこと言っていないわよ」

少し作ったような笑顔だった。

母さんは、僕の前に皿を置いた。
冷めかけたトーストと、薄く切ったベーコンがのっていた。

「早く食べなさい。学校に遅れるわよ」

僕はそれ以上、何も聞かなかった。

あの夜のことを、母さんは二度と話さなかった。
僕も話さなかった。

父は結局、戻ってこなかった。

あれから、五年が経った。

僕は中学生になっていた。
母さんは、父のことも、あの夜のことも、最後までほとんど話さなかった。

その母さんが、先月死んだ。

それから僕は、隣町の叔父の家に引き取られた。
あの家には、もう住んでいない。

叔父の家は古いレンガ造りだったが、ワードローブは新しく、扉の隙間もなかった。
廊下も、あの家よりずっと明るかった。

だから、もう大丈夫だと思っていた。

葬儀から七日目の夜だった。

僕は、叔父の家の二階で眠っていた。
白いユリと、溶けかけた蝋燭の匂いが、まだ服に残っていた。

深夜、玄関のほうで足音がした。

鍵を開けた音はしなかった。
けれど、誰かが廊下を歩いていた。

一歩。
また一歩。

その足音は、階段を上がってきた。
そして、僕の部屋の前で止まった。

しばらく、何の音もしなかった。

それから、懐かしい声で、僕の名前を呼んだ。

その声は、父のものによく似ていた。

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