森の誓い

Life

ん?
また、あの人間どもか……。

ついに、こんな森にまで奴らは手を出そうというのか。

遠くで、木が倒れる音がした。
ただ折れたのではない。
大地ごと押しつぶされるような、鈍く、重い音だった。

鳥たちが一斉に飛び立った。
枝葉がざわめき、猿たちが高い木の上で騒ぎ始める。
風の中に、いつもの森の匂いとは違うものが混じっていた。

油の匂い。
鉄の匂い。
そして、人間の匂い。

俺はゆっくりと顔を上げた。

奴らだ。
また、奴らが来た。

すぐそばでは、妻が子どもたちとじゃれ合っていた。
まだ幼い二匹は、母親の尻尾に飛びついたり、転がった葉を追いかけたりしている。
この森が揺れていることなど、何も知らない。

一匹が俺の足元まで走ってきて、前脚にじゃれついた。
小さな牙で噛んだつもりらしいが、痛くもかゆくもない。

俺はその頭を鼻先で軽く押した。

遊んでいろ。
今だけは、まだ。

もう一度、木の倒れる音がした。
先ほどより近い。

俺の喉の奥で、低い唸りが生まれた。

人間など、素手で来るなら怖くはない。
あの細い腕。
鈍い足。
柔らかい喉。

一匹ずつなら、俺の敵ではない。
牙を立てれば終わる。
爪を振れば倒れる。
森の暗がりで俺と向き合えば、奴らは震え、逃げ出すだろう。

だが、奴らは素手では来ない。

奴らは鉄を持ってくる。
火を吐く棒を持ってくる。
木をなぎ倒す巨大な機械を連れてくる。

奴らは弱い。
だが、弱いまま世界を壊す術を持っている。

俺はそれを知っている。

この森に来る前、俺たちは別の森にいた。
そこには深い川があり、夜になると鹿の群れが水を飲みに来た。
月のない夜でも、俺は道に迷わなかった。
あの森には、俺の足跡があった。
俺の匂いがあった。
俺の眠る場所があった。

だが、ある日、奴らが来た。

最初は遠くの音だった。
次に、川が濁った。
獲物が消えた。
鳥の声が減った。
そして、木々の間に白い傷のような道ができた。

それからは早かった。

森は、森ではなくなった。
風の通り道も、水の匂いも、夜の静けさも、少しずつ奪われていった。

俺たちは逃げた。
逃げるしかなかった。

あのとき、俺はまだ若かった。
怒りだけで身体が動いた。
何度も戻ろうと思った。
奴らに飛びかかり、喉笛を噛み切ってやろうと思った。

だが、妻がいた。
腹の中には、まだ生まれていない命がいた。

だから俺は退いた。

逃げたのではない。
生き延びたのだ。

そう自分に言い聞かせて、この森まで来た。

ここなら大丈夫だと思っていた。
木は深く、川は細く、道もない。
人間どもには届かない場所だと。

だが、奴らは来た。
どこまでも来る。
自分たちのものではないはずの場所にまで、当たり前の顔をして踏み込んでくる。

俺は妻を見た。

妻も、もう気づいていた。
子どもたちを自分の身体のそばへ寄せ、こちらをじっと見ている。
その目に、恐れはあった。
だが、それ以上に強いものがあった。

守れ、とその目は言っていた。
戦え、ではなく。
守れ、と。

俺は立ち上がった。

戦うことならできる。
この場で奴らを待ち伏せし、一匹か二匹なら倒せるかもしれない。
爪も牙も、まだ衰えてはいない。
この身体には、森で生きてきた獣の力が残っている。

だが、それで何になる。

一匹を倒しても、また別の一匹が来る。
十匹を倒しても、鉄の機械は止まらない。
俺が死ねば、妻と子どもたちはどうなる。

王として戦いたかった。
この森に立ち、咆哮し、奴らを追い返したかった。

だが今の俺には、それより大事なものがある。

俺は家族の前に立ち、森のさらに奥を見た。
まだ道はある。
まだ匂いは続いている。
まだ水の音も聞こえる。

完全には壊されていない。
まだ、森は生きている。

「行くぞ」

声に出したわけではない。
だが、妻には伝わった。

妻は子どもたちを促した。
二匹はまだ遊び足りないように、転がる葉を追いかけようとしていた。
そのうちの一匹が、俺の尻尾に飛びついた。

こんな時に、と思った。
だが、怒る気にはなれなかった。

小さな前脚が、俺の尾を必死につかんでいる。
その目には恐れなどない。
世界はまだ、遊び場でしかないのだ。

俺はその子を振り払わなかった。
少しだけ尾を揺らしてやると、子どもは嬉しそうに跳ねた。

その姿を見て、俺の胸の奥で何かが静かに燃えた。

そうだ。
まだ終わってはいない。

この子らが笑っている。
この子らが走っている。
この子らが、まだ森を信じている。

ならば、俺も信じなければならない。

遠くで、また木が倒れる音がした。
今度ははっきりと近かった。
地面がかすかに震えた。

俺は振り返らなかった。

振り返れば、怒りが勝つ。
怒りが勝てば、俺は戦いに戻ってしまう。
そして、家族を失う。

俺の爪は、敵を裂くためだけにあるのではない。
俺の脚は、獲物を追うためだけにあるのではない。
俺の牙は、誇りを守るためだけにあるのではない。

この命を、次の場所へ運ぶためにある。

俺は森の奥へ歩き出した。
妻が続く。
子どもたちが、その足元を転がるようについてくる。

木々の隙間から、細い光が差していた。
その向こうには、まだ知らない谷があるかもしれない。
まだ人間の匂いの届かない水場があるかもしれない。
夜になれば、また静かな草の上で眠れるかもしれない。

森はひとつではない。

俺はそう信じることにした。

俺の家族に手を出すことだけは、絶対に許さない。
俺はそれを今、心に誓う。

だが、そのために俺が選ぶのは、死ぬことではない。
生きることだ。
生きて、逃がすことだ。
この小さな命たちに、もう一度、森の朝を見せることだ。

背後で、鉄の機械が唸っている。
前方で、子どもの一匹がまた俺の尻尾にじゃれついた。

俺は低く息を吐いた。

行こう。
まだ、道はある。

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