その時、男は女の涙の理由を知りたいとは思わなかった。
その理由がなんであれ、自分のことで頭がいっぱいで煩わしいことには関わりたくなかったのだ。
女のありふれた涙は再び頬を伝って流れた。
ついさっき、女が自分のハンカチを使って涙をぬぐったばかりなのに。
男はさすがに周りの人たちの目が気になり始めていた。
この光景を目にした人たちは、おそらく非道な男だと思うだろう。
そろそろ女に優しい言葉をかけなきゃいけないと男は思い始めていた。
「ごめんね。。仕方なかったんだ」
男は目の前のコップの透き通った水を見つめながら、そう言った。
「仕方がないって何よ。どうせ新しい女ができたんでしょ」
女の表情は少し険しくなっていた。
女の感情が少しずつ、目の前の男への怒りへと向かい始めていたのだ。
「だから、ごめんって謝ってるだろ」
そう、男は今女に別れ話を切り出しているのだ。
「私だってつらい時もあったわ。でも、いつかあなたが輝けるようにって、
この5年間、あなたを支えてきたじゃないの。それが、こんな形で終わるなんて耐えきれない」
「だって、仕事だから仕方がないだろ」
実はこの時、男の頭の中にはもう一人の女がいた。
だが、もちろんそれを口にするわけにはいかない。
だから、表向きは仕事の転勤を別れの理由にしていたのだ。
女の勘はずばり当たっていたというわけだ。
「あなた、『仕方ない』しか言えないの? さっ、本当の理由を言ってみなさい」
「だから、会社の指示で来月から福岡に行かなきゃいけないんだって。他に理由なんてないよ」
男はその時、心の中のもう一人の女のことしか頭になかった。
だから、この場は早めに切り上げて、一刻も早くもう一人の女のもとに
戻りたかった。そして、前の女と別れてきたことをすぐにても報告したかった。
男には、罪悪感などかけらもなかった。
それほど、もう一人の女に頭を占有されていたのだ。
「わかったわ。どっちみちあなたの心は決まっているんでしょ。それには私にも考えがあるから。いいわよ」
今度は男の勘が働く番だった。
男の頭の中に嫌な予感が走ったのだ。
「お前、まさか・・・」
「そうよ。鈴木課長にすべてぶちまけてやるわ」
女はかつて男と同じ職場で働いていた。
女は3年前に男との関係が職場にばれるのが怖くて退職していたのだ。
鈴木課長はその時の男と女の共通の上司だったのだ。
「いや、わるかった。それだけは待ってくれ」
「わるかったってどういうこと? 今さら謝るわけ?」
「ごめん。もう一度、ちゃんと謝る。
たえ子、ごめんなさい。福岡に転勤するというのは実は嘘だったんだ」
「ようやく本音がでてきたわね。転勤が嘘だってことなんて、とうの昔に
わかってたわ。どうせだったら、全部吐き出したら?」
男は一瞬、ためらった。
どうせなら、もう一人の女のことも話してしまおうかと思ったのだ。
しかし、それを口にしたら自分は終わってしまうと思った。
鈴木課長の鬼の形相が、男の頭を一瞬横切った。
「いや、それ以上は言えない・・・」
「何なの? その態度! 謝ったり、怒ったり、嘘までついて・・・
もっとしゃんとしてよ!」
「いや、これには深い事情が・・・」
「だから、その事情を話してっていってるの!」
「たえ子、もしよかったら、もう一度、やり直すか」
男の頭の中は今、真っ白になっていた。
自分が何を口走っているかも、わからなかった。
とにかくこの場をうまくやり切ることに重心が移っていた。
もう一人の女のことも、男の心から消えていた。
「あなた、どうしたの? 大丈夫?」
そして、少し間をおいて女は言った。
「それなら、少し考えてあげてもいいけど」
女は少し顔を赤らめて、そうつぶやいた。
どうやら雲行きがあやしくなってきたようだ。
私のような第三者から見ると、この男のどこがいいのか理解に苦しむが・・・
この女にはこの男しか目に映らないのだろう。
「本当に悪かったね。今度、一緒に福岡にでも旅行に行こうか」
ついに福岡が転勤先から旅行先に代わってしまった!
そろそろ二人の痴話喧嘩からは、おさらばしましょうか。
二人はこうやって惚れた腫れたの中で生きていくのでしょう。
私たちがいくらヤキモキしても骨折り損というものです。
それでは、また、いつかお会いできる日まで。
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