旅の終わり

Life

港が見え始めた。
青黒い海の向こうに、岸沿いのかすかな灯りがちらちらと明滅している。
その光は、まるで長い航海を終えた者たちを優しく迎えるようで、
男にとってはどこかロマンティックに感じられた。

「もうすぐだね」と、男は目を細めて言った。
船の甲板には冷たい風が吹き込んでいたが、その冷気すらも旅の終わりを彩る演出のように思えた。

男の隣には女がいた。
無言で海を見つめるその横顔には、旅の疲れとも取れる静けさがあった。

「今回の旅は、最高だったよ」
男は少し誇らしげに言った。

女はわずかに頷いただけだったが、口元にはうっすらと笑みのようなものが浮かんでいた。
「…あら、そう。よかったわね」

男は嬉しさを抑えきれず、さらに話を続ける。
「君はどう? 家に戻ったら最初に何がしたい?」

その瞬間、女の表情がわずかに変わった。
風の音とエンジンの響きの合間に、彼女の声が低く響いた。

「さあ……あなたとの生活を終わりにする準備、かな」

男は、まさかという顔をした。
「えっ、どうした? 何を怒ってるんだ?」

女はしばらく黙っていたが、ゆっくりと目を細めて海を見やった。
「この旅でね、あなたの最低な部分が見えたのよ」

静かな怒りがその声には込められていた。
男は口を開こうとしたが、何を言えばいいのか分からなかった。
海の上にいるはずなのに、彼の足元だけが揺らいでいるような錯覚に陥った。

「私、最初は楽しみにしていたの。あなたとの二人きりの時間、いろんな景色、会話、思い出になると思ってた。でも、現実は違ったわ」
「……」
「自分の話ばかりして、人の気持ちを聞こうともしない。困っていても、気づかないふり。そんな小さな積み重ねが、この数日で一気に崩れたの」

男は何かを言おうとしたが、その言葉は喉の奥に引っかかったまま出てこなかった。

船は静かに港へと近づいている。
岸の光は、もうすぐ目の前まで届こうとしていた。
だが、それが彼にとっての「帰る場所」であるとは、もう言えなかった。

女はひとつ息をついて、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「帰ったら荷物をまとめるわ。話すことは、もうないと思う」

男はその横顔を見つめるしかなかった。
冷たい風が吹き抜ける中、港の灯りだけが、ただ静かに彼らの終わりを照らしていた。

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