扉の向こう

Life

この扉の向こうに、何があるのだろう。

この扉を抜ければ、あなたに会えるのだろうか。

そんなことを、二十年ぶりに考えている。

あなたは今、どこにいますか。

最後にあなたを見たのは、こんな黄色い扉の前だった。

強すぎる陽射しの中で、あなたは一度だけ振り返り、

「ここから先は、君を連れていけない」

と言った。

その言葉を、私は今でも覚えている。

あなたは、旅人のような人だった。

けれど、旅が好きだったわけではないのだと思う。

あなたが本当に好きだったものを、私は最後まで知らなかった。

あなたは、ひとつの場所に留まることができなかった。

穏やかな部屋。

同じ朝。

決まった時間に鳴る電話。

誰かと同じ食卓につく暮らし。

そういうものを、あなたはどこかで恐れていた。

戦場カメラマン。

そう名乗るあなたの声は、いつも少しだけ乾いていた。

まるで、それが職業ではなく、逃げ場のない生き方であるかのように。

あなたは時に激しい人だった。

笑う時は、こちらが驚くほどよく笑った。

私の手を取る時は、世界に私しかいないような顔をした。

夜中に突然電話をかけてきて、ただ私の声を聞いていたこともあった。

けれど、冷たい時は、本当に冷たかった。

何週間も連絡が途絶えた。

約束の日に戻ってこなかった。

問い詰めると、あなたは疲れた顔で煙草に火をつけ、

「戻ってきただろう」

とだけ言った。

私は怒った。

何度も怒った。

もう待たないと思った。

あなたの名前を、心の中から消そうとした。

それでも、あなたが戻ってくると、私はまた許してしまった。

あなたは、私を必要としているように抱きしめた。

けれど、私のいる場所には、決して住もうとしなかった。

そんな人だった。

あなたは、自分の仕事の話をほとんどしなかった。

どこへ行っていたのか。

何を見たのか。

誰を撮ったのか。

誰を見送ってきたのか。

私が聞いても、あなたはいつも曖昧に笑った。

「たいしたことじゃない」

そう言って、窓の外を見た。

嘘だと思った。

でも、私はそれ以上聞けなかった。

あなたの中には、私が入ってはいけない部屋がいくつもあった。

私は、その扉の前で立ち止まることしかできなかった。

あの町で過ごした数日は、夢のようだった。

白い壁。

石畳。

遠くから聞こえる車の音。

昼間の光は強すぎて、景色の輪郭が少しだけ溶けて見えた。

あなたは珍しく穏やかだった。

朝にはパンと苦いコーヒーを買ってきて、昼には何も話さずに町を歩いた。

夕方になると、宿の窓辺で煙草を吸い、古いカメラを膝に置いていた。

私は、もしかするとこのまま少しだけ一緒にいられるのではないかと思った。

愚かな期待だったのかもしれない。

でも、その時の私は、本気でそう思っていた。

出発の日、あなたは小さな鞄ひとつで部屋を出た。

私は何も言わずに、あなたの後を歩いた。

そして、あの黄色い扉の前で、あなたは立ち止まった。

「ここから先は、君を連れていけない」

あなたはそう言った。

私は聞きたかった。

どうして。

いつ戻るの。

私は何なの。

あなたにとって、私はどこまで踏み込んでいい人間なの。

でも、どれも言えなかった。

言えば、あなたは困った顔をする。

そしてきっと、優しい嘘をつく。

私はその嘘に、またすがってしまう。

それが分かっていた。

あなたは私を見た。

一瞬だけ、本当に苦しそうな顔をした。

それから、扉の向こうへ消えた。

私はしばらく、その場に立っていた。

扉がもう一度開くのを待っていた。

あなたが冗談のように戻ってきて、

「やっぱり、少しだけ歩くか」

と言ってくれるのを待っていた。

でも、扉は開かなかった。

宿に戻ると、窓辺にあなたのライターが残っていた。

傷だらけの、銀色のライターだった。

あなたがいつも使っていたもの。

煙草に火をつけるたび、乾いた金属音がしていた。

私はそれを手に取った。

まだ、あなたの指の熱が残っているような気がした。

別れてから八か月後、あなたから一度だけ手紙が届いた。

差出人の住所はなかった。

消印の地名だけが、見知らぬ国の名前だった。

手紙は短かった。

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生きている。

それだけ伝えておく。

君を連れていかなかったことを、

後悔している。

けれど、間違いだったとも言えない。

高瀬

—————————————

私はその手紙を、何度も読み返した。

謝罪のようで、謝罪ではなかった。

愛情のようで、別れの言葉でもあった。

あなたらしいと思った。

ずるくて、不器用で、残酷で、優しい。

あなたそのもののような手紙だった。

その後、あなたから連絡はなかった。

数年後、本屋の片隅で、あなたの写真集を見つけた。

表紙に、あなたの名前があった。

高瀬 遼。

私はしばらく、その本を手に取ることができなかった。

名前を見ただけで、心臓の奥が痛くなった。

それでも、結局買った。

家に帰って、夜更けにページを開いた。

そこには、あなたが見ていた世界があった。

壊れた家。

瓦礫の中に立つ子ども。

抱き合う女たち。

空を見上げる老人。

焼けた壁の前で眠る犬。

逃げる人々の足元。

泣いていない顔。

あなたは、私に何も説明しなかった。

でも写真だけは、あなたがどこに立っていたのかを、静かに語っていた。

私は初めて、少しだけ分かった気がした。

あなたは私を愛していなかったのではない。

ただ、あなたのいる世界には、いつも誰かの死が近すぎた。

そしてあなたは、そこから目を逸らすことができなかった。

それでも私は、あなたを許したわけではない。

待たされた夜。

戻らなかった約束。

何も告げずに消えた背中。

その痛みは、消えたわけではなかった。

ただ、少しだけ形を変えた。

あなたを責める気持ちの奥に、あなたが抱えていたものの重さが、遅れて沈んできた。

あれから二十年が経った。

私は年を取った。

鏡を見るたびに、知らない線が顔に増えている。

若い頃に似合った色が、もう似合わないことも知った。

徹夜もできなくなった。

誰かを激しく待つ体力も、もうあまり残っていない。

けれど、あの黄色い扉の前に立ち尽くしていた私だけは、今でもあの日のままだった。

私は、あなたを待っていたのだと思っていた。

でも、もしかすると違うのかもしれない。

私が二十年待っていたのは、あなたではなかったのかもしれない。

あの扉の前で動けなくなった、私自身だったのかもしれない。

今、目の前にある扉は、あの日の扉ではない。

よく似ているだけの、別の町の、別の誰かの家の扉だ。

けれど、強い陽射し。

白い壁。

黄色い木の扉。

その前に立っていると、二十年前の私が、すぐ隣にいるような気がした。

私は鞄の中から、傷だらけのライターを取り出した。

もう火はつかない。

何度試しても、乾いた音がするだけだ。

それでも私は、捨てられなかった。

あなたが残していったものだからではない。

それは、私の中の何かを一度だけ燃やしたものだったからだ。

私はしばらく、そのライターを手の中で握っていた。

この扉の向こうに、あなたはいない。

そんなことは、もう分かっている。

あなたは、きっとどこにも帰らない人だった。

あるいは、もうどこにも帰れない人だったのかもしれない。

それでも私は、まだここにいる。

この足で立っている。

この手で扉に触れることができる。

私は黄色い扉に、そっと手を触れた。

開けることはしなかった。

開ける必要もなかった。

私はライターを鞄に戻した。

あなたを忘れるためではない。

あなたを持ち歩くためでもない。

あの日の私を、ここに置き去りにしないために。

風が吹いた。

壁に咲いていた花が、小さく揺れた。

私は扉に背を向けた。

あなたは、どこにも帰らない人だった。

でも私は、もうどこかへ行ける人になっている。

そう思いながら、私はゆっくりと歩き出した。

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