私はこの街にいたころ、この場所には私の店があった。
今は、おしゃれなバーに変わったようだ。
ガラス越しに見える店内は、やけに明るい。
磨かれたカウンター。
間接照明。
背の高い椅子。
若い客たちの笑い声。
私の知っているこの場所は、もっと暗かった。
煙草の煙が低く漂い、安い香水と酒と雨の匂いが混じっていた。
カウンターの端には壊れたピアノがあり、夜更けになると、誰かが弾けもしないジャズを鳴らした。
あの頃、私には怖いものはなかった。
そう思っていた。
私はコートの襟を立て、店の扉を開けた。
入口のベルが、小さく鳴った。
若いバーテンが顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
「ウイスキーをロックで」
私はカウンターの端に腰を下ろした。
「銘柄は任せる」
バーテンは少しだけ私を見て、それから静かにうなずいた。
若いが、悪くない所作だった。
グラスを置く音にも、無駄がない。
私は店内を見回した。
「ずいぶん変わったな」
バーテンが手を止めた。
「以前、こちらに?」
「少しな」
私は笑った。
「昔、この場所で店をやっていた」
バーテンの目が、ほんの少し動いた。
興味を持ったらしい。
「バーだったんですか」
「表向きはな」
私はグラスを手に取った。
氷が鳴る。
懐かしい音だった。
「昔は、この通りも少し荒れていてね。金を持った人間と、金を持っていない人間と、金の匂いだけを追ってくる人間が、同じ夜に集まっていた」
「危ない店だったんですね」
「危ないのは店じゃない。人間だ」
バーテンは小さく笑った。
私はグラスを唇へ近づけた。
酒の匂いはした。
だが、味はしなかった。
「お名前を伺っても?」
バーテンが言った。
私はしばらく黙った。
その名前を口にするのは、ずいぶん久しぶりだった。
「風間だ」
私は言った。
「昔はこのあたりで、ミスター・カザマなどと呼ばれていた」
バーテンの表情が変わった。
「ミスター・カザマ……?」
私はグラスを置いた。
「まだ、その名を知っている者がいるのか」
「祖父から聞いたことがあります」
「ほう」
「シティ・アヴェニューに、昔、誰も逆らえない店主がいたと。警察も、ギャングも、政治家も、その人の店では声を荒げなかったと」
「噂というのは、歳を取るほど立派になる」
私は自分の手を見た。
細く、白く、血の気のない手だった。
「本人は、こんなにみすぼらしくなるのにな」
バーテンは何も言わなかった。
ただ、私の前に置かれたグラスを見ていた。
氷は、まだほとんど溶けていなかった。
昔、ここには私の店があった。
店の名は、Kazama’s Bar。
もっとも、看板をまじまじと見る客などいなかった。
客は皆、何かから逃げていた。
借金から。
過去から。
女から。
男から。
あるいは、自分自身から。
私はその全員に酒を出した。
時には話を聞き、時には黙ってグラスを磨き、時には裏口から逃がした。
それが私の仕事だった。
「怖いものなど、なかったんですか」
バーテンが尋ねた。
若い声だった。
若い人間は、ときどき残酷なほどまっすぐな質問をする。
私は笑った。
「怖いものがなかったわけではない」
グラスの中の氷を見た。
「怖がっている姿を、誰にも見せられなかっただけだ」
店の奥で、かすかに音楽が鳴っていた。
今風の洒落た曲だったはずなのに、そのときだけ、古いジャズのように聞こえた。
リサが歌っていた夜を思い出した。
彼女は、この店で歌っていた。
細い身体に、赤いドレスを着ていた。
声は少しかすれていたが、不思議と人を黙らせる力があった。
彼女はいつも、街を出たがっていた。
「ここには、夜しかないわ」
そう言って、笑った。
私は彼女を守っているつもりだった。
面倒な客を追い払い、借金取りを裏口で待たせ、酔った男の手を静かにひねった。
だが、今なら分かる。
私は彼女を守っていたのではない。
この店に留めていたのだ。
彼女が外へ出れば、私は一人になる。
それが怖かった。
ある夜、彼女は私に言った。
「もう行くわ」
「どこへ」
「どこでも。ここじゃない場所へ」
私は笑った。
いつものように、余裕のある顔をした。
「外の世界は、そんなに優しくない」
「ここも優しくないわ」
そのとき、私は何も言えなかった。
その夜、彼女を追ってきた男たちがいた。
金の話だったのか、組織の話だったのか、今ではもう曖昧だ。
ただ、私は初めて本気で怖いと思った。
彼女を渡せば、私は生き残れる。
彼女を逃がせば、私は終わる。
私は裏口を開けた。
彼女にコートを着せ、少しの金を握らせた。
「駅まで走れ」
彼女は私を見た。
「あなたは?」
「私は店主だ」
私は言った。
「店を空けるわけにはいかん」
彼女は何かを言いかけた。
だが言わなかった。
それが、彼女を見た最後だった。
そのあと、何が起きたのか。
銃声がしたことは覚えている。
床に落ちたグラスの音も覚えている。
赤いネオンが、雨ににじんでいたことも覚えている。
そして、カウンターの向こうで誰かが叫んでいた。
ミスター・カザマが撃たれた、と。
「……お客様?」
バーテンの声で、私は現在に戻った。
「顔色が悪いですよ」
「昔からだ」
私はそう答えた。
バーテンは私のグラスを見た。
それから、不思議そうに眉を寄せた。
「お口に合いませんでしたか」
「いや。悪くない」
「でも、ほとんど減っていません」
私はグラスを見た。
たしかに、ウイスキーは一口も減っていなかった。
氷だけが、音もなく光っていた。
「歳を取ると、酒にも慎重になる」
私は言った。
バーテンは、納得したような、していないような顔をした。
「そのリサさんは、その後どうなったんですか」
「知らん」
私は首を振った。
「知らないほうがいいこともある」
「会いたいとは思いませんか」
私は少し考えた。
「思うさ」
自分でも意外なほど、素直な声が出た。
「だが、会えば礼を言われるかもしれん。あるいは恨まれるかもしれん。どちらも、今の私には少し重い」
バーテンは静かにうなずいた。
店の外を、車の光が流れていく。
窓の向こうのネオンが、雨に溶けていた。
この街は変わった。
看板も、人の顔も、酒の値段も。
だが夜だけは、あまり変わらない。
夜は、昔のものを隠すのが上手い。
そして時々、隠したものをそっと差し出してくる。
「私はこの店に戻ってきたのではない」
私は言った。
「この店に置き去りにした私自身を、見に来たのだ」
バーテンは何も言わなかった。
ただ、私の前に立っていた。
「見つかりましたか」
「少しな」
私はカウンターを指でなぞった。
昔の傷は、もう残っていない。
だが、私には分かる。
この場所には、まだ何かが沈んでいる。
煙草の煙。
女の歌声。
壊れたピアノ。
雨の日に逃げていった背中。
そして、怖くないふりをしていた若い男。
すべて、ここにあった。
私は立ち上がった。
「お帰りですか」
「昔の客は、長居しないものだ」
そう言ってから、少し迷った。
「いや……」
私はもう一度、椅子に手を置いた。
「もう一杯だけ、もらおうか」
バーテンは、なぜかほっとしたように笑った。
「もちろんです」
彼が背を向け、棚からボトルを取った。
ほんの一瞬だった。
その一瞬のあいだに、店内の音楽が遠くなった。
雨の音も、客の声も、グラスの音も、すべて薄れていった。
そして、バーテンが振り返ったとき、カウンターの端には誰もいなかった。
ただ、古いマッチ箱がひとつ置かれていた。
翌朝、バーテンはその話を誰にも言わなかった。
ただ、開店前の静かな店で、昨夜のカウンターをもう一度拭いた。
そこには水滴も、灰も、足跡もなかった。
けれど、引き出しの中には、古びたマッチ箱があった。
黒ずんだ紙の表面に、かすれた文字が印刷されている。
Kazama’s Bar.
City Avenue.
それが初めからそこにあったのか、昨夜置かれたものなのか。
彼には、最後まで分からなかった。
ただその日から、雨の夜になると、バーテンはカウンターの端にグラスをひとつ置くようになった。
ウイスキーを少しだけ注ぎ、氷を一つ落とす。
その席に誰かが座ることはない。
それでも、氷が静かに鳴るたびに、彼は思うのだ。
昔、この場所には、たしかに店があったのだと。
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