私はこの砂の世界で生きている。
見渡す限り、砂。
空を見上げれば、果てしない空。
それ以外に何もない。
あるいは、何も要らない——と思えるほど、この世界は単純だ。
砂は風に吹かれ、時に丘を作り、時に跡形もなく崩れる。
昨日あったはずの景色が、今日にはもう消えている。
まるでこの世界が、「記憶」さえも必要ないとでも言っているかのようだ。
ここでは、時間さえも静かに飲み込まれていく。
けれど、そんな美しく静謐な世界も、人間にとっては過酷そのものだ。
砂では、腹は満たされない。空気はあっても、水はない。
見上げる空には雲ひとつなく、照りつける太陽は、容赦なく命を削ってくる。
人は、水がなければ生きられない。食料がなければ朽ちていく。
つまり、この世界は、私たち人間にとっては「死」が常に隣にいる世界だ。
それでも私は、ここで生きている。
なぜだろう。
それは、この単純さの中に、何か大切なものが潜んでいる気がするからかもしれない。
都市の喧騒も、人間関係の複雑さも、争いも、評価も、何もない。
ここではただ、風が吹き、鳥が飛び、太陽が昇って沈むだけだ。
それは、ある種の「真理」だと感じることがある。
生きるとは、何かを得ることではなく、何かとともに在ること。
この砂の世界で、それを少しだけ、私は理解し始めている。
今日も私は、足元の砂を踏みしめながら、ひとり歩く。
空を舞う鳥たちは、何も語らず、ただ西へと羽ばたいていく。
彼らのように、何かを求めるのではなく、ただ「生きる」ことができたなら。
そう思いながら、私はまた一歩、乾いた地面に足を落とす。
それが私の「砂の世界」での、確かな生のかたちだ。
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