細い路地。
雨上がりの石畳に、ぽつり、ぽつりと水たまりが残る。
壁には色とりどりの絵が描かれているけれど、それを目に留める人はいない。
ただ、ふたり。
年老いた夫婦が、一本の傘の下に並んで立っている。
おじいさんは背筋を伸ばし、古びた帽子の下から空を見上げる。
おばあさんは小さな杖をつき、じっと前を見つめている。
ふたりとも、何かを探すような顔をしていた。
「……わしら、こんな雨の日も、風の日も、よう一緒に歩いてきたのう」
おじいさんが静かに口を開いた。
その声は、どこか遠くの思い出に手を伸ばすような、そんな響きをしていた。
「なあ、お前。
わしと過ごしたこの人生、どうじゃった?」
おばあさんは、すぐには答えなかった。
ただ、少しだけ視線を上げて、傘の内側を見つめる。
「……」
「どうしたんじゃ。感慨にふけっとるのか?
あれかの、昔のこと、思い出してるのか?」
おじいさんは、少し笑いながら言った。
照れ隠しのようでもあり、何かを確かめたいようでもあった。
おばあさんは、ゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ。そんなんじゃありませんよ」
彼女の声は、小さく、けれど確かに芯があった。
「……あんたのことじゃから、
こう言ってほしかったんでしょう?」
「あなたと寄り添って生きられて、本当にいい人生でした。ありがとう」――って。
おじいさんは、何も言えずにいた。
「でもね、私は、ただ黙って、
耐えて、耐えて、生きてきたんですよ」
「言葉を飲み込んで、
自分の気持ちを奥にしまって、
あんたの背中を、いつも見送るだけの人生でした」
「それでも、あんたにとっては、
“いい人生だった”と聞きたいんでしょうね。
最後くらい、きれいな言葉でまとめてほしいって、思ってる」
傘の下に、長い沈黙が降りる。
やがて、おじいさんが小さくうなずいた。
何かを悟ったように、あるいは、すでに覚悟していたかのように。
「……そうか。
それでも、お前がそばにおってくれて、
わしは、幸せじゃったよ」
おばあさんは、何も返さなかった。
ただ、ふたりで並んで、またしばらく黙って立ち尽くしていた。
路地の奥から、子どもたちの笑い声が聞こえた。
ふたりは、少しだけ歩を進める。
人生の、ほんの少し先へ。
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