至福の時間

Smile

仕事終わりにリビングで過ごす数時間が私の至福の時間だ。
コンポでビルエバンスのピアノをかけながら、ソファに沈み込む。
お気に入りのカップに少し濃いめのコーヒーを淹れて、足なんてこんな感じで思いっきり伸ばしちゃう。
お店でこんなことをすると、すぐに店長のお小言が飛んでくるけど、ここなら大丈夫。
なぜなら、ここは私のスウィートホームだから。

私は本当にこの時間が好き。
仕事終わりの心地よい解放感と充実感に浸りながら、軽く目を閉じる。
今日はお客さんの入りが、本当に少なかった。
2時間に1組入るか、入らないかのペースで、店長に聞くと、この一日でトータル7組だったそうだ。
こんな日は、一日中、カウンターの横にぼーっと立っていることになる。
たまに店長と雑談をするが、ずっと一緒にいるとさすがにネタも切れてくる。
おまけに店長からは、今日、きつい一言を言われた。
(そのことは後で詳しく話すわね。)
こんな日は、仕事中もこのソファに身を沈めて、頭を空っぽにして、おいしいコーヒーをいただくことを思い描いてしまう。
そう、今ちょうどこのソファで、至福の時間にひたっているように…

私が勤めているのは、コントベリーガーデンにある、こじんまりした喫茶店だ。
そこで、ウェイトレスとして働いている。
飲み物やサンドイッチなどの軽食を作る店長と私二人の本当に「こじんまり」としたお店だ。
だから、お客さんの数は私の仕事の量に直結する。

多すぎると、お客さんからの注文の聞取りが、雑になる。
あちこち走り回って、どうしても注文の聞き間違えや聞き漏らしが出てくる。
注文メモが店長の調理台の上に何枚も横並びに並ぶ。
そして、私もカウンターに入って、飲み物をカップに注いだり、トーストを焼いたりすることになる…
目の回るような忙しさがいつ終わるともなく、続く。
金曜日の夜と土曜日の昼間はいつも、こんな感じだ。
だから、私にとって週末は地獄だ。

少なすぎると、今日のようにお店で考えていた余計なことをこの神聖な場所にまで持ち帰ってくることになる。
今日のお客さんの数は少なかったけれど、その中に常連の山下さんがいた。
山下さんは、背はそんなに高くないが、いつも白色のベレー帽をかぶってチノパンをはいている、ちょっとおしゃれな「イケオジ」だ。
山下さんがカウンターに座るなり、私に早速、話しかけてきた。
「よお、ヒロミちゃん、今日はいつもよりきれいだね。なんかいいことあった?」
「もお、山下さん、うれしいけど、いつもと同じですよ。髪型もお化粧もいつもと同じ…」
すると、店長が横から会話に入ってきた。
「そうなんですよ。僕も今日はなんだか、ヒロミちゃん、きれいだなあって、思ってたんですよ」
「もお、店長まで! やめてください。恥ずかしいじゃないですか…」
「なんだよ。恥ずかしがることないって。ヒロミちゃんのこと、ほめてるんだから」
「店長、褒め殺しって言葉知ってますよね」
「おお、こわ。俺がヒロミちゃん、殺しちゃった?」
山下さんが横から助け舟を出してくれた。
「ごめん。ごめん。僕が余計なことを言いだしたから」
「そうですよ。山下さんが変なこと言い出すから」
「ヒロミちゃん、山下さんのお褒めの言葉は素直に受け取っておきなさい」
少し沈黙があった後、山下さんが言った。
「それにしても、2人、相変わらず仲がいいね。もしかして、そのカウンターの奥で手を握り合ってたりして」
その言葉に店長が反応した。
「そうなんですよ。この前も2人で城崎に温泉旅行に行ってきたんですよ」
「もお、店長! 最低ですね」
「ごめん、ごめん。冗談だって」
「もし、城崎に行くんだったら、絶対、山下さんと行きます!」
「だから、冗談だって」
山下さんは、しみじみとこう言った。
「そんな2人はやっぱり仲がいいんだよなあ。でもヒロミちゃんとだったら、いつでもオッケーだよ!」

そんな会話を、解放感を解き放すはず…のこの時間にまで持ち越して、思い出してしまっている…。
私は店長の「2人で城崎に行ってきたんですよ」という言葉に本気で怒っていた。
冗談じゃない!
どうして、私があんなキモイ店長と温泉旅行なんかにいかなきゃならないのよ!
冗談かもしれない。でも、冗談にしても度が過ぎていると思った。
なぜ、あのキモイ店長は私と温泉旅行に行けると思ったのかしら。
もおー、考えているだけで腹が立つ。
それにあれほどタイミングよく、あのキモ店長からあの言葉が出たってことは、やつはいつもそんなことを考えているのかも。
ああ、キモイったらない。
でも、そもそもなぜ、「城崎」だったのかしら。
下呂温泉でも別府温泉でもなく、「城崎」だった。
安くすまそうとしやがって!
いや、そんなことどうでもいいわ。
なぜ、あのキモ店長は私と温泉旅行に行けると思ったかよ。
あの不潔なひげ面でよくそんなこと思えたものよね。
ちょっと待って。
もしかして、店長の度を越した冗談だったら…
私がここで、あれこれ考えていることはすべて無駄だってことになる。
いや、そんなことはない。
あの言葉を言った時のキモ店長の目は真剣だったわ。

ちょっと待って。
もしかして、私、堂々巡りをしてない?
ああ、あのキモイ店長のせいだわ。
もおー、絶対に明日、わざと注文を間違えてやる!
私の至福の時間を返してよー!

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